文章の価値を考える

好きな作家の小説やエッセイを読んでいると、読点の打ち方が時々気になることがあります。プロの作家に対して失礼だとは思いますが、その位置で読点を打つとかえって文章が読みにくくなるなあと思うことがあります。

 

例えばこんな感じです。 

 

「その位置で、読点を打つとかえって文章が読みにくくなるなあと思うことがあります。」

 

このような不必要だと思われる位置に打つ読点です。ただ、今日このようなことを書いたのは、その作家の方を批判するためでもなければ、読点の打ち方について持論を述べるためでもありません。

 

上に書いたように、読点の打ち方が気になることはありますし、この読点は打たないほうがいいのになあなどと思うことはありますが、それでもその作家の小説を読んで私は心を打たれます。ですから、その小説の内容が(少なくとも私にとって)素晴らしいことに変わりはありません。逆に、読点の打ち方などは文句のつけようがないけれども、読んでいて今ひとつ心に響かないという小説もあるかもしれません。

 

そう考えると、文章の価値というのは、作文技術としての文章のうまさよりも、読み手に訴えかける内容であるかどうか、あるいは、読み手の人生に影響を与えるような内容であるかどうかによって決まるものだと思います。

 

何が言いたいのかというと、例えば文章を書く場合でも、何が重要なのかという優先順位を間違えてはいけないということです。私は翻訳の仕事でも同じことが言えると思っていて、翻訳する際には、数字のミスやスペルミスなどは当然気を付けなければならないことですが、いくら数字やスペルにミスがなかったとしても、翻訳した文章が原文の内容を正確に伝えるものでなければ、それは本末転倒だと思います。ただ、ケアレスミスというのは油断から起こるミスで、あまり気を付けていないところほどミスをしやすいので、そのあたりの意識の配分がなかなか難しいのですが、やはり「根本」は翻訳する内容そのものであり、数字やスペルなどは「枝葉」というのが基本になります。(ただし、その数字がその文書において決定的な意味を持つ場合やそのスペルミスによって全く逆の意味になってしまうような場合は別ですが)

 

さらに言えば、一読すると非常に読みやすく分かりやすい日本語訳であっても、それが原文の内容を正確に伝えるものでなければ、やはり翻訳としての「価値」は低いものになりますし、逆に、日本語として表現が若干不自然であったり、ぎこちなかったりしたとしても、少なくとも原文に書かれている情報を正確に伝えるものであれば、非常に読みやすく分かりやすいけれども原文の内容とは異なる日本語訳よりも翻訳としての「価値」は高いと言えます。

 

文章を書くにしても翻訳するにしても、そのあたりの本筋というのを外さないようにすることが大切なことかと思います。

 

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