書き手の視点に立って原文を読み解く

 タイ語の原文を読み解く上での拠り所となるのは、何と言っても文法の知識である。タイ語に限らず外国語の文章構造を正しく理解するためには、そのもととなる規則が分かっていなければならない。逆にこの規則が十分に分かっていないと、その外国語を読んでも「意味が分からない」ということになる。

 ただ、文章の中にはいわゆる「非文法的」な表現というのもあり、話し言葉の要素の強い文章には特にその傾向がある。では、そういった文章の場合は文法は役に立たないかと言えばもちろんそうではない。「非文法的」な表現であるかどうかが分かるのは、その言語の文法というのもが分かっていればこそであり、文法というregularに対応できれば、非文法というirregularに対応するのは実はそれほど難しいことではない。


 しかし、外国語を読み解くというのは、文法にだけ拠っていればいいのではないということをつい先日やった翻訳の仕事であらためて再確認させられた。

 どういうことかと言うと、翻訳したその文章の中にかなり構造の複雑な文章があり、というのはつまり、一度や二度読んだだけではその文章構造が見えてこない文章があり、その文章を読み解くために、私は文法を拠り所にして何とかその文章構造を解読しようとした。そして、やや腑に落ちないものを感じながらも何とか納得のできるレベルで構造を解読し、その文章の内容を日本語で書き表した。

 そして締切り当日の朝、最終チェックのために日本語にした文章を読み(ちなみに、最終チェックというのは基本的には直すところはない(はずの)状態で「念のために」もう一度読み直すという作業である)、件の文章を読み、やはり何か気持ちが悪いので、もう一度該当箇所の原文のタイ語の文章を読み返してみると、それまでまったく見えていなかった文章構造が明瞭に見えたのである。そう、前日までに解読したと思っていたのはまったくの思い違いだったことに土壇場で気が付いたのである。

 私にはどうして前日まで真の文章構造が見えなかったのか。そして、どうして私は土壇場で真の文章構造に気付くことができたのか。

 私に真の文章構造が見えなかったのは、文法という規則に拠りかかるあまり、その文章が何を言わんとしているのかという視点に欠けていたからである。つまり、知らず知らずのうちに「枝を見て木を見ず」になっていたからである。逆に土壇場になってそれに気づくことができたのは、その一文も含めて文書の全体像がはっきり見えるようになったことで、つまり、「木」である一文一文の集まりである「森」の全体像が見えるようになったことで、あらためてその一本の「木」の形に気付いたからである。

 文章構造を解読する上で文法を拠り所にすることは誤りではない。それどころか必要不可欠なことである。だが、それだけに固執すると、その文章が何を言わんとしているのかという「書き手の視点」を欠くことになってしまう。その文章を書いた人は、当然何かを伝えるためにそれを書いている。その「何か」を正しく読み取ることが一番重要なのであって、文法というのは、主要ではあってもやはりその手段の一つにすぎない。今回の仕事を通じて、これまでよりも一段高い次元でそのことを理解できたような気がする。

 蛇足だが、書き手の視点を理解するためにも、自分自身でその言語を「書く」という「素振り」もやはり必要なのだなとあらためて思う。