ノーベル文学賞を翻訳という視点から見る

 

昨日は「視点を変える」ことの重要性について書きました。今日は、ノーベル文学賞を翻訳という視点から見てみたいと思います。

 

今年2020年のノーベル文学賞アメリカの詩人のルイーズ・グリュックさんという方が受賞しました。私はこの方のことは何も知りませんし、今日はこの方のことを書くつもりはありません。

 

実は昨日、翻訳者の鴻巣友季子さんの以下の記事をたまたま目にしたので、翻訳者の端くれとして興味深くこの記事を読みました。

 

news.yahoo.co.jp

 

ノーベル文学賞と言うと、この記事にも出てきますが、日本では村上春樹さんのことが毎年話題になります。そして、村上さんのことを多少なりとも知っている人は、村上さんの著作が数多く翻訳されていることもご存知かと思います。

 

そこで、なぜ村上春樹さんが毎年のようにノーベル文学賞の候補に上がるのかをあらためて考えてみると、もちろん村上さんの著作が評価されているからなのですが、もし村上さんの著作がまったく外国語(特に英語をはじめとする世界でも主要な言語)に翻訳されていなかったとしたら、当然ながらノーベル文学賞の候補に上がることはまずないでしょう。

 

村上さんの著作が外国語に翻訳されているからこそ、村上さんの著作は世界において評価の対象になるわけです。そう考えると、翻訳という仕事の役割は非常に大きなものがあるのですが、翻訳という世界にあまり関わりのない方は、おそらくですが、ノーベル文学賞を「翻訳」という観点から考えたことはないのではないかと思います。こういうのも「視点」、「物の見方」の問題であり、ノーベル文学賞も「翻訳」という視点から見るのもまた興味深いものではないかと思います。

 

さて、上の記事で鴻巣友季子さんは、村上さん以外のノーベル文学賞の候補者ということで、2人の日本人の名前をあげていて、恥ずかしながら私はお二人とも知らなかったのですが、多和田葉子さんという方のことをインターネットで少し調べてみると、非常に興味深いことが分かりました。この方は日本で生まれ育った方のようなので、当然日本語の本はたくさん書かれているのですが、実はドイツ語の本もたくさん書かれているのです。

 

このことを知って、私も翻訳ではなくタイ語でも何か書いてみたいなと思うようになりました。というのも、一人の人間が「翻訳」ではなく2つの言語で何かを書くというのも単純に面白いのではないかと思ったからです。これはほぼ思いつきで書いているので本当に書くかどうかは分かりませんが、「翻訳」という枠がなければ、(表現力の限界という問題はさておき)割と自由に何かを書けるのではないと思います。

 

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