手書きのタイ文字の判読

 翻訳の仕事で原文のタイ語が手書き文字ということはそうはないのだが、先日久しぶりに手書き原稿の翻訳をした。手書きの原稿というのは個人の手紙でなければ、たいていは何かのアンケートであり、今回もやはりある会社のアンケートの回答が原稿であった。
 原稿が手書きの場合、何と言っても一番問題なのが、書かれている文字が判読できるかどうかである。しかもアンケートの回答ということになると、必ずと言っていいほど、アンケート書くなんて面倒くせえ〜という気持ちがありありのミミズが這ったような字を書く人が何人かはおり、そういった文字の判読に頭を悩ませるのである。ただ、あまり機会がないとは言っても、手書きのタイ文字は翻訳の仕事以外でもそれなりに読んできており、これまでの経験から言うと、たいがいの字は何とか読めるものである。

 今回の手書き文字はかなり「難易度」の高い部類に入る文字で、私にはどうしても読むことができない文字がけっこうあったので、妻(タイ人)にも少なからずご足労いただいた。逆に言うと、妻がいなければ引き受けるのはちょっと難しい仕事だった。もちろん、中には度を越してひどい字というのもあって、そういう字はタイ人の妻であっても読めないので(後から読んだら書いた本人でも読めないんじゃないかと思う)、そういうところは泣く泣く「判読不能」と書くことになる。

 ところで、今回この「難易度高」の手書き文字を読んでみていくつか気が付いたことがある。かなり難解で上述のように読めない文字もけっこうあったのだが、それにしても、以前では読めなかったであろうと思われる文字が読めるようになった。変な話だが、判読できた文字をあらためてながめ、「俺こんな文字よく読めたな」などと思う文字もあった。このように感じたのは、以前よりも手書きの文字に慣れてきたということもあるかもしれないが、それに加えて「文の流れを読む」力が向上していることもその理由ではないかと思う。というのは、純粋に「文字の姿形」という情報(あるいは手がかりと言ってもいいかもしれない)だけでは判読できかねる文字であっても、そこに「文の流れ」という情報が加わることで判読できることもあるからだ。国語や英語のテストで文章の中で一つだけカッコになっている穴あき問題というのがあるが、ああいう問題を解くようなイメージである。上述の「俺こんな文字よく読めたな」レベルの文字は、活字のタイ語とは一見すると似ても似つかぬような文字もあり、「文字の姿形」のみから判断すると、例えば“ขึ้น”という言葉をその文字と読むには無理があるような姿形なのだが、文の流れという情報も加味して考えると、消去法という意味でその文字は“ขึ้น”以外には考えにくい、ゆえにこれは“ขึ้น”であると判断(判読)できるというケースもあるのである。

 したがって、タイ人(妻)には読めるのに私には読めないというのは、一つは、ある文字をある文字と認識できる幅の差がその理由である。つまり、タイ人(妻)の場合は“ขึ้น”という単語一つとっても、これまでに様々な形の“ขึ้น”を目にしてきているはずであり、これまでに目にしてきている“ขึ้น”の文字のバリエーションの差が判読力の差になるわけである。もう一つは、これまでに目にしてきた文章(および耳にしてきた言葉)の差ではないかと思う。つまり、タイ人(妻)のほうが私よりも多くの文章パターンを目にし耳にしてきているので、その分だけ文の流れを読む力が上なのである。

 なお、「耳にする」言葉は音声であり文字ではないので文字の判読には一見関係がないように思えるが、読みにくい字を何とか読もうとする時、あるいは文章の意味を理解しようとする時、人は自然と「音読」するものであり(少なくとも私はそうである)、言葉(音声)を耳で聞くということは、文字の判読も含めた文章の読解にも大いにプラスになると私は考える。