きちんと年を取るということ

 こんなことは以前にもブログで書いているかもしれないが、私は年を取るにつれて「年を取る」ということを一段と意識するようになっており、ここ二、三年は特に顕著に意識するようになってきた。
 「年を取る」というのは、年老いていく、衰えていくといったように一般的にはあまりいいイメージの言葉ではないかもしれない。だが、人というのは誰であれ、生まれたその瞬間から「死」への第一歩が始まるわけであり、年を取るということは、その「死」という、万人にとって唯一無二の最終地点に向かう歩みのことである。つまり、この世に生を受けた以上、何人たりとも避けて通ることのできぬ道である。
したがって、人として生きるということは、逆に言えば、いかにして死ぬかということであり、だからこそ、年を取るにつれて、あるいは年を重ねるにしたがって―ということはつまり、「死」という最終地点へと近づいていくにしたがって―死というものを自然と意識するようになる。そうすると、「いかに」年を取るかということが必然的に人生のテーマになってくる。

 昨日も書いたように現在私は37歳であり、37歳の人間にふさわしいだけの中身が今の自分に果たしてあるか、つまり、37年間人生を重ねてきただけの重みというのが人として備わっているかということを強く意識するようになった。そして、例えば、40歳になった時に、年齢を重ねたことを悲しむでもなく、さりとて喜ぶでもなく、ただ人生の必然として淡々と受け入れ、ただし、40年間生きてきた重みがその時の自分にあるかどうかだけは意識し、40歳なら40歳という年齢にふさわしい人間でありたいと願う。年を取ることを意識するとは、つまりはそういうことである。

 結局、いかに年を取るかというのは美醜を超越した内面の問題なのであるが、逆に、年を取れば取るほど、人の内面というのはその人の外面である顔に顕著に現れてくるようにも思う。いわゆる「年輪を重ねた表情」ということになるだろうか。だから、内面の問題ではあるが、40歳なら40歳らしい顔、50歳なら50歳らしい顔、60歳なら60歳らしい顔というのにその年齢に達した時になれていることが、きちんと年を取ることなのかなと思う。