From Sep to Oct Part4

 あらかじめ訳を用意しているとどうしても文章を読む声色になってしまうと書いたが、テレビやラジオでセリフをそのまま読んでいるようなしゃべり方をしている人が時々いるが、要はあれと同じであり、ああいうしゃべり方を目にしたり耳にしたりすると、もっと自然なしゃべり方ができないものかなあと思ってしまう。そういう通訳を自分ではやりたくないと、そういうことなのである。

 そして、あらかじめ訳をバッチリ書いておくと、実はさらに大きな問題も生じるのである。
 というのも、あらかじめ訳を準備しておくと、肝心のスピーカーの発言が聞けなくなるのである。なぜかと言えば、訳が準備してあるので、それをしゃべることに気を取られ、肝心のスピーカーの発言に意識が集中できなくなるからである。

 今回の仕事では、私はすべての訳を書くのではなく必要なことだけを書いておいたと言ったが、特に最初の挨拶は出だしということもあって、自分でももう一つぎこちないというのが分かった。棒読みとまではいかないが、やはりどうしても通訳ではなく「読もう」とする意識に引っ張られるからである。これは何とか通訳のリズムを修正しなければまずいと思い、あらかじめ書きこんだタイ語はあえて見ないようにして、スピーカーの発言に意識を集中するようにした。そして、その後プレゼンでは、挨拶ほどタイ語の書き込みをしていなかったことと、当日になってプレゼンの内容が修正されたこともあって、スピーカーの発言に自然と意識を集中することができるようになり、実際のところそちらのほうが通訳もリズムに乗れたのである。このへんはやはりライブにはライブのリズムがあるというなのだろう。

 しかし、日本語からタイ語の通訳というのは、タイ語から日本語の通訳とは違う意味で疲れる。というのも、純日本人である私が瞬間的にタイ語に訳出するというのはやはり相当なエネルギーがいるのである。もちろん日本語の発言を聞く時も、特にそれが専門的な内容である場合は、まず頭の中でその内容を瞬間的に噛み砕かなければならないので、その作業にもそれなりのエネルギーが必要なのだが、その後、噛み砕いた日本語をタイ語に再構築する際に大きなエネルギーを消費する。というのも、この段階で、できるだけシンプルで分かりやすいタイ語を頭の中で瞬間的に組み立てると同時に訳出する(頭の中で内容を整理しつつ同時にタイ語を口から出すイメージ)のだが、タイ語の場合は日本語と比べるとどうしても表現力の引き出しというか持ち駒が少ないので、この訳出に苦労するわけである。逆にタイ語から日本語に訳出する時に一番エネルギーを使うのはタイ語を聞く時で、そこできちんと内容が取れれば、私の場合は日本語への再構築にはさしたるストレスは感じないし、逆にここでいかに日本語で表現するのかが通訳の腕の見せどころであり、通訳の醍醐味であると思っている。なお、「いかに日本語で表現するか」の醍醐味という部分で言えば、タイ日翻訳の場合でも基本的には同じことが言える。