こういうのを翻訳というのです

 仕事柄、プロの翻訳者のブログやサイトをわりとよく読む。ただ、絶対数の関係から英語の翻訳者のものを読むことが多い。

 こういったブログやサイトを読むのは、プロの翻訳者としてどういった考え方で翻訳に取り組んでいるのか、翻訳するにあたってどういったことを心がけているのか、作業を効率化するためにどういった工夫をし、また、どういったツールを取り入れているか、プロの翻訳者として収入をあげるにはどうすればいいのか、翻訳の質を高めるにはどうすればいいのかなどといったことがプロの視点で書かれているからである。
 今回もある翻訳者のブログを読んでいて、「そうそう、まさにそのとおり」と共感することが書かれていた。次の文章である。

「実際の翻訳作業というのは、単語レベルで置き換えるような逐語訳をしてから、あっちを少し、こっちを少しと調整して仕上げてゆくものではありません。原文を読んで、えいやっと訳文をひねり出すものです。いったんひねり出した訳文をさらに調整することはあります(というか、まともな翻訳者なら必ずやります)。でも、時間も手間も品質も、最初のえいやっまででほとんど決まってしまうのです」(このサイトより一部を抜粋)


 私も以前自分のブログで似たようなことを書いた記憶があるが、翻訳というのは、とりあえず外国語を日本語(もどき)に置き換えて、その後それを何とか日本語らしくしていくという仕事「ではない」のである。この方が「原文を読んで、えいやっと訳文をひねり出すもの」と書かれているように、最初に訳した時点でもう八、九割方は日本語として完成しているのものなのである。少なくとも私はそういうのが「翻訳」という仕事だと思っている。逆に、最初に訳した時点で日本語もどきレベルの文であれば、その後その文にどれだけ手を入れようとも、それなりの(というのはつまり不細工な)日本語にしかならないと私は思う。言うならば、半人前の板前が握ったいまひとつの寿司を、確かな技術を持った一人前の板前が握りなおしたとしても、ちゃんとした寿司にはならないというようなことと同じではないかと思う(実際にはどうなのか分からないがきっとそうだろう)。結局、最初から握りなおすしかないのである。というのも、一人前の板前であれば、それこそ最初の一握り、二握りでもう九割方の形はできているはずであり、その最初の作業を経ずにちゃんとした寿司を握れるわけがないからである。だから、半人前の翻訳者が訳した文章をチェックし訂正するなどという作業は、翻訳がどういう仕事であるかを分かっている人にはとても引き受けられたものではないのである。