日タイ翻訳から学べること

 このブログで何度も書いているように翻訳と通訳は似て非なる仕事である。

 そして、同じ翻訳と言っても、タイ日(タイ語から日本語への)翻訳と日タイ(日本語からタイ語への)翻訳もやはり同様に似て非なる仕事である。
 何が違うかと言えば、詰まるところタイ日翻訳とは日本語を書く仕事であり、日タイ翻訳とはタイ語を書く仕事であるということである。そして、日本で日本語による教育を受けたいわゆる「日本人」であれば、タイ語を書くよりも日本語を書くほうが得意である(タイ語で言う“ถนัด”である)に決まっている*1。そういう意味で、やはり日本人はタイ語から日本語への翻訳をするのが筋であり、翻訳とは本来そういうものであると思っている(ということも以前このブログに書いている)。

 だが、現実としては日本語からタイ語の翻訳を依頼されることもあり、ここのところ、以前よりも日タイ翻訳の依頼を受けることが多くなっている。

 上に書いたような理由から、私はできれば日タイ翻訳はやりたくないのだが、今は内容として翻訳が可能と判断したものに限って引き受けているのが現状である。

 そして引き受けた日タイ翻訳の仕事をしていてつくづく感じるのが、自身のタイ語の表現力の乏しさである。専門用語とか特殊な用語というものではなく、ごく一般的な表現であっても、それをすっきりとした自然なタイ語にするというのは意外なほどに難しい。正直、簡単な表現ほど難しいというのが実感であり、これは日本語をタイ語にする通訳の難しさとも通じるところがある。(例えば、この「通じるところがある」といったような日本語は日本人としては何ということもない表現だが、これをいざタイ語で表現しようとするとその難しさに気が付くのであり、これが要は表現力のなさということなのである。)

 では、こういったごく一般的な何ということのない表現というのはどうやって身につければいいのか。一番の近道はやはり本を読むことだろう。それも幅広いジャンルのものを数百冊という単位で読まなければ、いわゆる「幅広い表現力」というのは、たとえタイに何十年住んでいようと、いつまでたってもつかないだろう。これは日本人であっても読書をしなければ日本語の表現力が乏しいのとまったく同じことであり、外国語であるタイ語であればなおのことなのである。

 同じことを何度も書いているが、本を読むこと。これに尽きる。一に読書、二に読書、三、四がなくて、五に読書。だからインターネットに時間を費やしている暇などないのだよ、と自分に言い聞かせる。

*1:ただ、近頃インターネット上で目にする日本人の日本語を読むと、まともな日本語ひとつ書けない日本人が増えているなあと感じる。やはり本を読まなくなっているせいだろう。自分ももっと本を読まねば。