タイ語の小説の翻訳

 ちょっと話を現在の事象に戻して。というか日記とはそもそもそういうものであってぼくのようにいつまでもダラダラ昔のことを書いているほうがおかしいのだが。

 先週書店でタイの小説を購入した。とは言っても地方都市に住んでいるぼくのことである。もちろんタイ語の小説を買ったわけではない。日本語に翻訳されたタイの小説を購入したのである。

 タイ語の原書の作者はタイでは著名な作家で、日本語の訳者もタイ語の世界では名の知れた方である。

 ぼくがこの小説を買ったのは、タイ語の世界では名の知れた訳者が日本語に翻訳したタイ語の小説がいかなるものか読んでみたかったからであり、もちろん翻訳者として他者の翻訳から学びたいからである。

 実はこの小説はひとつの話ではなく短編集であり、まだ最初の話しか読んでいない。それでもここに記しておこうと思ったのは、この小説の翻訳そのものについてどう思ったかを書きたいからではなく、最初の話を読んでみて、自分なりに「翻訳とは何か」ということについて感じたところがあったからである。

 まず、大きな視点で「翻訳」を考えた時、やはり何と言っても「日本語を書く力」が一番肝心なのだと再確認した(ちなみにここで書いている翻訳とはタイ語を日本語に訳すという意味である)。タイ語を訳すのだから当然タイ語を読んで理解する能力は必要であるし、国や人を含めて「タイ」全般に関する広汎な知識もあわせて必要となる。ただし、それらはタイ語から日本語への翻訳という仕事をする上での必要条件であって十分条件ではない。だからいくらタイ語の専門家であっても、タイの文学に通じていても、タイについて研究している人であっても、必要にして十分な日本語能力がなければ、ぼくが考えているところの「質の高い翻訳」というのはできない。

 次に、実際にタイ語を日本語に訳す段階でどういった処理が鍵になってくるのかということを、上述の小説の日本語訳を読んでやはりあらためて再確認することができた。つまり、タイ語と日本語の性格の違いというものを考えた場合、「特にタイ語の動詞と修飾語(形容詞や副詞の類)をいかに日本語に置き換えるか」という作業が、日本語として様になるか(日本語として十分に読むに耐えられる文章となるか)どうかのひとつの大きな鍵であるということである。これについてはタイ語を日本語に翻訳する作業をある程度こなした人でないと分かりにくいかもしれないが、タイ語というのはやたらと動詞が連続する言葉であり、そうした動詞をいちいち一対一対応で訳していたら「日本語もどき」にはなっても「日本語」にならないのである。それがひとつ。もうひとつ修飾語については、どう日本語に置き換えるかという問題の前に、まずタイ語の文章における修飾語の使い方が日本語の文章におけるそれとは違うのだということを理解しておく必要がある。これについてはまだここでうまくまとめて書けそうもないので、ある英日翻訳者が書いた小論集を参考にして説明してみたいと思う。この翻訳者はサイデンステッカーというアメリカ人日本学者が翻訳した川端康成の『山の音』に出てくる英語と原書の日本語を比べているのだが、この人は原書の日本語では1語の形容詞や副詞が英語では2語になっている点に注目している。つまり、日本語と英語ではそもそも言語としての性格が違うので、たとえ日本語では形容詞1語で表現されていても、英語では2語にしないと「様」にならないわけであり、そのあたりの性格の違いを少なくとも理解していないととてもじゃないけど日本語として様にならず、日本語として様になっていなければ質の高い翻訳とは言えないというのが現時点でのぼくの考えなのである。

 ちなみにぼくは上述のタイ語の原書を持っておらず、比較のしようがないので、今タイに戻っている妻にこの原書を買ってきてもらうつもりである。



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