やっぱりまずは発音

 モジュール1とモジュール2ではタイ語の文字の読み書きは勉強せず、アルファベット表記したテキストを使って勉強する。つまり、最初の2ヶ月間は文字は全く勉強せずにひたすらスピーキングの練習を繰り返す。

 そして、モジュール1では最初の2日間で発音の練習をする。

 具体的に言うと、タイ語の母音と子音、それから声調の発音の練習をする。タイ語の勉強をしたことがある人なら分かると思うが、タイ語の発音というのは少なくとも成人の日本人にとっては容易ではなく、正直言ってたった2日間練習しただけで身に付くものではない。ぼく自身は、学校に通う前にある程度独学していたこと、それからタイ人である妻にも練習相手になってもらっていたこともあり、おそらく他のクラスメイトよりは多少タイ語に慣れていたとは思うのだが、それでも「เอ」と「แอ」や「โอ」と「ออ」の聞き分けなどはまだ正確にはできず、その当時もたった2日ではとてもすべての音を聞き分けられるようにはならないと思ったし、その状態で次の内容に進んでしまうことに不安も感じた。

 ただし、では発音の練習だけを1週間も10日もやればいいのかというとやはりそうではないと思う。というのも、やはり生徒の立場になってみれば、いくら発音が完全にできないと言っても、1日4時間の授業で毎日毎日発音の練習だけではとてもじゃないが飽きてしまう。だから、個人的には、発音の練習は最初の2日間ぐらいでひと通りのことを、ということはつまり、タイ語の子音と母音、声調がどういった発音をするのかといって程度のことを勉強すればいいのだと思う。あとは実際の単語を発音していくなかで少しずつ音に慣れていくしかない。

 とは言うものの、やはり発音の基礎というのは非常に重要である。というのは、最初の段階で変な発音の癖がついたまま半年なり1年なり勉強すれば、その後に発音を矯正するというのは非常に困難だと思うからである。ここで言う変な癖というのは、「タイ人と話をした時に理解をしてもらえないような発音」という意味であり、逆に言えば、成人の外国人学習者にとってはタイ人と同じような100%完璧な発音ができる必要はないと個人的には考えている。つまり、例えば、日本人の発する音にはどうしても日本語の基礎があるわけなので、日本人がしゃべるタイ語というのは当然「日本語なまり」のタイ語になる。それはある意味当然のことであり、そのなまりをなくそうとする必要はまったくないと思う。大事なことは日本語なまりのないようなタイ語をしゃべられることではなく、なまりがあってもタイ人に理解してもらえる発音をすることなのである。要は、タイ語の発音の基礎から大きくはずれるような発音でなければ、多少日本人らしいなまりがあってもそれはそれでいいのである。逆に、タイ語の発音の基礎ができていない状態でどんどん新しい言葉を覚えていっても、なかなか上達しないどころかむしろ変な癖がついてしまう恐れがある。

 発音は基礎が重要だというのは、タイ人同士が話すタイ語で考えてみても同じことが言えるのではないかと思う。というのは、ぼくたち外国人が勉強するタイ語というのはいわゆる標準語と呼ばれるタイ語なのだが、タイ人が話すタイ語というのは当然この標準語だけではなく、地方によってそれぞれ独特のなまりがある。いわゆる方言というやつである。そして、同じタイ語であっても標準語と方言では発音も随分違うのだが、よっぽどきついなまりを別にすればタイ人同士は発音が違ってもちゃんとお互いの言うことが分かるのである。これは日本で東京の人と大阪の人が話をしてもお互いの言うことが分かるのと同じことである。ではなぜ発音が違ってもお互いの言うことが分かるのかというと、それはちゃんと発音の基礎ができているからだとぼくは思っている。

 そして、今にして思うのだが、この発音の基礎が身に付くかどうかはやはり聞く時間と話す時間の多少にかかってくると思う。ぼく自身はタイ語学校で勉強していた頃は仕事はせずにタイ語の勉強だけをしており、「タイ語漬け」と言っても過言ではない生活を送っていたが、それでもその当時タイ語を聞く時間と話す時間が十分だったかと聞かれれば、まったく不十分だったとは言わないが絶対的に十分だったとも言えない。というのも、学校での4時間以外にタイ語を聞いたり話したりする時間が足りなかったのではないかと今にして思う。その当時はすでに妻と一緒に暮らしていたので家に帰っても毎日のようにタイ語を使ってはいたのだが、ぼくは妻以外のタイ人とは実はそれほど話をしていなかった。もちろん他の生徒と比べれば、学校以外の時間にタイ語を聞き話していた時間はかなり多かったと思うのだが、当時を振り返るとそれでもタイ語を聞いたり話したりする時間がまだ十分ではなかったと感じている。このあたりはぼくの性格に起因するところが大で、その当時からもっといろんな人と話をしなきゃという自覚はあったのだが、それでもできなかったという部分がある。そういう意味でもし語学の才能というものがあるとすれば、誰とでも臆せず話せるというのがそれに当たるのかもしれない。

 とにかく、発音の基礎というのは、その言葉を聞いて話す時間の長さに比例して身に付くものである。そして、その時間というのはおそらく多くの人が考えているよりもずっと長いはずであり、少なくとも、1日4時間、週5日間学校で勉強する程度ではまったく足りないと言うことはできる。